寝ている彼に聞こえるか聞こえないかわからない程度の小さなため息を吐いた。
今日は私の34度目のバースデー。
少し前から「指輪が欲しい」とそれとなく伝えていたのに。
「なんで今、ピンキーリング?」
いい歳の彼女に指輪が欲しいなんて言われて、まさか本当にアクセサリーを欲しがってると思う程鈍い男じゃないだろう。
薬指ではなく小指にキラリと輝く指輪の意味は、つまり、NOって事。
学生時代の友人は、20代のうちに殆どが結婚してしまった。最初の頃こそ焦っていたが、今はただ落ち込むばかりだ。
何がいけないんだろう。
結婚が早けりゃ幸せになれるなんて思ってはいないけど、女には明確なタイムリミットがある。
それは、女性としての美しさのタイムリミット。歳を重ねても美しい女性もいるし、若さだけが美しさではない事はわかってはいるけれども、そうは言っても。
思考回路が闇落ちしてる。
深く考えるのはやめにして、私ももう眠ろう。
洗面所のミラーを見ながら汗でヨレてしまったマスカラをシートでオフして薄づきのファンデーションで目の下のクマを隠す。
本当はちゃんと洗顔して寝たいけど、すっぴん風ナチュラルメイクなんてしなくても済む年齢はとうに超えてしまった。
シミもたるみも愛して欲しい、なんて彼には言えるはずもない。「ありのまま」も「私らしさ」もコンシーラーで塗り潰す。メイクで隠して着飾ってなきゃ。年相応のおばさんに愛は手に入らない。
いやいや、ピンキーリングとはいえ指輪も貰ったし、フレンチレストランでディナーを食べて、ホテルにお泊り。充分幸せなプランじゃないか。きっと今はまだタイミングじゃないだけ。焦るな焦るな。
ロングヘアをホテルのアメニティのヘアゴムでざっくりとアップにし、先ほどまで抱き合っていたベッドに潜り込む。
暖かいなあ。
人肌の温もりが、なんだか辛い夜だった。
月曜日。
今日からまた日常が始まる。
「先輩〜!どうだったんですか?プロポーズ。」
「あはは、何言ってるの。ないよ何も。」
「え〜先輩もう36じゃないですか!そろそろじゃないですか?彼氏さん酷くないですかあ〜?」
甲高い声で畳み掛けられて、一瞬怯んでしまいそうになる。
「まだ34だよ!うるさいな。今ちょっと仕事バタついてるみたいだから、それどころじゃないんじゃない。」
「外資系でしたっけ。先輩の彼氏。
お金持ってるじゃないですか!早く捕まえとかないと逃げられちゃいますよ」
嫌なことを言う女だ。デリカシーがなくて苦手なタイプ。
私だって捕まえられるなら捕まえたい。仕方ないじゃない。
なんだか居心地が悪くて、急いで仕事を終わらせる。
誰も私の仕事に期待なんてしていない。与えられた仕事を時間内に終わらせるだけ。何百何千回とやった事務処理を、これからもずっと繰り返すだけ。
何のために働いてるんだろう。
彼の年収なら、結婚したら専業主婦になっても大丈夫のはず。子供が大きくなったらパートにでも出て…。ああ、早く仕事辞めたい。
「ただいまー。」
やっと帰って来られた。誰もいないとわかっていても、いつもただいまと言ってしまうのは何故だろう?
リビングのテーブルに置かれたワイングラスに魚の餌をシャカシャカと振り入れる。
ワイングラスで飼える熱帯魚、ベタ。
大きくて迫力のある真っ赤なヒレに一目惚れして買った魚だ。ワイングラスで手軽に飼える、というのも魅力の1つ。
狭くて可哀想に思うときもあるけれど、グラスの中でぷかぷか泳ぐ姿が綺麗でずっとこうして飼っている。
いつか、結婚してマイホームを建てたらきっと大きな水槽に入れてあげるからね。
何の根拠もない約束をしてベタを見つめる。
ピンポーン。
そう、今日は彼が初めてうちに来る日。ウキウキで玄関を開ける。
「いらっしゃい。私も今帰ったところなの。」
彼は小さな声でうん、と呟いた。
玄関で靴を脱ぎ、リビングのソファにどかっと座る。テーブルの上のグラスを見て、ようやく彼が口を開く。
「何これ、魚?」
「うん。ワイングラスで飼える熱帯魚。綺麗でしょう。」
「ふうん。」
「ベタって魚だよ」
「ベタねえ…。ペットでしょ?名前とか付けてないの?」
「付けてないよ、ベタはベタだよ」
「ふうん。」
大して興味もなさそうな彼に、意を決して話してみた。
「あのね、ちょっと聞きたいことがあって。
私たちの将来のこと、どう考えてくれてるのかなって。その…もし結婚とかも視野に入れてくれてるんだったら、私も仕事のこととか考えたいし。」
「仕事?お前の仕事と結婚に何の関係があるの?」
「もし結婚してくれるなら、今の仕事辞めちゃいたいな〜なんて考えてて。ハハ…」
しばらくの沈黙の後、彼は言った。
「なんか、ベタってお前みたいだな。」
「え?」
「自分の周りだけしか存在しないようなすげえ狭い世界で、たった一人で生きてんの。名前も与えられずにさ。他の人なんて全然見えてなくて、自分だけ。結局自分のことしか考えてないんだよ。
いくら見た目だけ小綺麗にしたって無駄だよ。
ワイングラスの中だけで完結して、それで満足しちゃってるような人生、俺はまっぴらごめんだね。
仕事を辞めたくて結婚を選ぶような生き方、みっともないよ。
俺、お前とは結婚しない。
悪いけど精神的に向上心の無い女、バカだと思ってるから。」
運命の出会いだと思っていた。
これが最後の恋になるはずだった。
呆気なく終わった。
いや、本当に最後の恋かもしれない。
何もない34歳の女に、次の恋なんて存在するのだろうか。
失恋の悲しみは、孤独への恐怖だった。彼そのものを失ったことよりも、独りぼっちになってしまった事の方が何倍も辛い。胸が、痛い。とにかく痛かった。
ベタみたい?何それ。ベタのことなんて何も知らないくせに。
結論から言うと、私は36歳でまた新しい恋をした。
あの後結局仕事は辞めてしまい、今は派遣社員としていろんな会社を転々としている。まだ何者にもなれていないけれど、少しだけスッキリした気分。
彼と別れた後、半分ヤケクソになって登録した婚活サイトで出会いがあったのだ。
なんだかパッとしない見た目で、なんだかパッとしない年収の男となんだかパッとしない恋をして、なんとなく生きている。
野心家ではないけれど、大らかで優しい人。気を使わずにいられる人。
お風呂場のドアが開く音がする。
「シャワー借りたよ。」
首にタオルを掛けてノタノタと歩いてくる彼の姿を見て、大らかなのは体型もだな、とクスッと笑った。私も人のことを言える身体ではないけれど。
「ふう。暑いね。」
そう言って彼はワイングラスに入った水を一気に飲んだ。
え?ワイングラス?
「ちょ、ちょっと待って!それ、魚が…」
「え?」
もう遅かった。彼はすっかり水を飲み干してグラスは空になっていた。
「飲んじゃったの?魚が、魚が入ってたのに!なんで気づかないの、なんで飲んじゃうの!バカじゃないの!」
慌てる私を見て、彼が堪え切れないように噴き出した。
「あはは、嘘だよ嘘!サプラ〜イズ!お風呂場見てきてごらん。」
急いでお風呂場まで行くと、大きな水槽の中を気持ちよさそうに泳ぐベタがいた。
「びっくりした?驚かせようと思って大きな水槽を買っておいたんだ。」
「良かった…。でもなんで、いきなり…」
「だっていつも狭いグラスで可哀想じゃないか。のびのび泳げた方が気持ちいいでしょ。君みたいにさ。」
「私みたいに?」
「えーっと、これはつまり、プロポーズなんだけど。
本当はベタをもう一匹買ってきて二匹にしてさ、僕たちもこの二匹のベタのようにずっと仲良く、みたいなことを言おうと思ったんだけど、ペットショップの店員さんに聞いたらベタは闘魚だから二匹で飼うと物凄く喧嘩しちゃうんだって。
だから、ベタみたいに綺麗なヒレもなけりゃ僕なんてカナヅチなんだけど、えっと、…上手い台詞が全く思いつかないんだけど……とにかく結婚して欲しいんだ。僕と。」
ロマンチックとはあまりにかけ離れた下手くそなプロポーズ。
私は笑いながら頷いた。