小説

パラレル・チョコレート・ワールド

妻が焼いたトーストに、いつものチョコレートスプレッドを塗って食べる。40も過ぎたおじさんがいつまでそんな甘いもの、と妻にからかわれることもあるが好きなものは仕方がない。私は昔から甘党で、特に好きなのがこのチョコレート。
あれ?
「おい、これピーナッツバターじゃないか」
キョトンとした顔で妻が言う。
「そうよ、いつものピーナッツバター。あなた好きでしょう?」
確かにピーナッツバターも嫌いではないけれど。たまたまいつものチョコレートを切らしていたのか、とぼけているだけなのか。要領を得ない妻の言葉に多少苛立ちながらもこんがりと焼いたトーストにたっぷりとピーナッツバターを乗せ、齧り付く。
「行ってきます」と家を出て、電車に乗って会社に向かう。駅の構内にある喫茶店で、ホットチョコレートを買うのが毎朝のルーチンだ。なんたって職場のコーヒーメーカーにはブラックコーヒーしかないんだから。
「いらっしゃいませ」
「ホットチョコレートをひとつ」
いつもの店員が怪訝そうな顔で尋ねる。
「ホットコーヒーで、よろしいですか?」
「だから、ホットチョコレート」
「……当店ではそのような商品は扱っておりませんが」
そんなはずはないと言ったが全く話が通じない。仕方なくキャラメルラテをテイクアウトし、近くのコンビニエンス・ストアに向かう。
菓子類が陳列された棚に、妙な違和感があった。
キャンディ、グミ、ビスケット。隣の棚には新商品のポテトチップスがずらりと並べられている。
ない。
チョコレートが、一つもない。
なんてこった。諦めて店を出たもののどうにも腑に落ちない。ただの一つもチョコレートを売っていないコンビニが、存在するのだろうか。いや、たまたまだろう。深く考えても仕方がない。遅刻をしないうちに会社に向かわなければ。

やはり甘いものを食べなければ、なんとなく調子が狂う。
仕事を終えて疲れた身体に欲するのは、一粒のチョコレートだ。あそこのコンビニには売っていなかったし、わざわざ遠回りをしてまで買いに行く元気もない。
妻は明日の私のために、チョコレートスプレッドを買ってくれているだろうか。
帰宅し、妻の作った夕食を食べながら一日の話をする。
「今日は運が悪かった。どこにもチョコレートがなくてな。」
「チョコレート……って何かしら?」
馬鹿にしているのか。黒くて甘いチョコレート。あのお菓子のチョコレートだよ。何度そう説明しても、妻は本当にわかっていない様子だった。
おかしい、何かがおかしい。
例のコーヒーショップの店員の態度、そしてコンビニのお菓子棚。まさか本当に誰もチョコレートを知らないのだろうか。
いやそんなはずはない。昨日までみんな当たり前に食べていたじゃないか。

次の土曜日は一日中、妻とチョコレートを探し何軒もスーパーマーケットやケーキショップを巡り歩いたが、とんだ無駄足だった。
どこを探しても見当たらない。誰に聞いてもわからない。
そんな馬鹿な、と思っていたがこれで確実になった。チョコレートは、私の住む世界から完全に姿を消している。
どこにも存在しないお菓子を必死に探し回る私を、妻が心配そうに見つめていた。
私は、おかしくなってしまったのだろうか。もしかしたらチョコレートなんて本当に存在しないのか。全ては私の妄想だったのか。
「ねえ、そろそろお茶にしましょうよ。歩き疲れてしまったわ。」近くにあった喫茶店を見ながら妻が言う。少し古ぼけた昔ながらの喫茶店。今時珍しい、懐かしい雰囲気に心惹かれた。 中々いい店じゃないか。店内は静かで、白髪のマスターが一杯ずつ丁寧にサイフォンで淹れるコーヒーは絶品だった。
妻がトイレに立った際、隣の席の老人に何気なく目をやる。仕立てのいいスーツに、きっちりと撫でつけられた髪。机の上には強くアイロンのかけられたハンカチが四つ折りで置かれていた。背筋を伸ばしコーヒーを啜る姿は、温和でどこか気品がある。思わずじっと見つめていると目が合ってしまった。
「あのう、何か。」
「あ、あの、すみません。チョコレートってご存知ですか」
まずい、慌てて変なことを口走ってしまった。老人は少し驚いたような顔をして
「わからない」と悲しそうに首を振った。
「じゃあ君は、グングルパーニャを知っているかね。」
グングルパーニャ?初めて聞く言葉だ。
「それは何ですか?」
どうやら老人は、グングルパーニャという国の出身だったらしい。だった、というのはグングルパーニャが今はもう存在しない国だからだ。
「存在しない?」
私には老人の言うことが理解できず、ぽかんと口を開けてしまった。
数十年も昔のある日、急にグングルパーニャは姿を消してしまったらしい。地図上からも消え、誰に聞いてもそんな国はないと。グングルパーニャを知る人は誰もおらず、今となってはグングルパーニャという国は、老人の頭の中にしか存在しないのだという。
老人の妄言には聞こえなかった。私の置かれている状況と、全く同じじゃないか。

妻がトイレから戻ってきたので老人との会話はそこで終わってしまったが、自分と同じ状況の人がいることは、素直に嬉しかった。何かのヒントが得られた訳でもないが、私のような人は他にもいるのかもしれない。
その夜、ベッドで色々なことを考えた。
この世界のこと、元の世界のこと、そして、あの老人のこと。
並行世界、いわゆるパラレルワールドのようなものなのだろうか。私の住んでいた世界とほとんど同じ、だけど少しだけ違う世界。こちらの世界になにかの拍子に飛び込んでしまったのだ。しかし、なぜ。
いや、それって本当に特別なことなんだろうか。
もしかしたら普段から当たり前にみんな色々な世界線を行ったり来たりしていて、誰もそれに気付かず暮らしているだけなのかもしれない。今まで大して気にも留めず通り過ごしてきた数々のすれ違いや些細な思い違いも、パラレルワールドが関与していたのかも。なんて、さすがに考えすぎだろうか。いつまで考えても答えなど出るはずもなく、いつの間にやら眠ってしまっていた。
朝になり目を覚ます。
妻が焼いたトーストにピーナッツバターを塗ることにももう慣れてしまった。蓋を開けようと手を伸ばす。
「あれ、チョコレートじゃないか」
「そうよ、いつものチョコレート。あなた好きでしょう?」
「チョコレートを知っているのか?」
「当たり前でしょう。いつまで寝ぼけているのよ。」呆れたような顔で妻が言う。
なぜだかわからないが、元の世界に戻ってきたらしい。ほっと一息つき、いつもよりチョコレートをぶ厚く塗ったトーストを齧る。
食べ慣れた甘い味。
こうして考えると薄気味悪い世界だった。自分が当たり前だと思っていることを、誰も知らない世界。もう二度と戻りたくはない。いつもの朝の光景に、心の底から安堵した。もしかしたらあれは長い長い夢だったのかもしれない。そうだよな、チョコレートを誰も知らない世界なんて馬鹿げた夢だ。トーストをぺろりと平らげ、「行ってきます」とドアを開けて会社に向かう。
今日はいい日になりそうだ。

「続いてのニュースです。
今月10日、グングルパーニャの大統領の来日が発表されました。日本とグングルパーニャの外交の歴史は非常に長く……」